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勉強しなければだいじょうぶ / 五味太郎

教育的、学校的幻想。人間たるもの向上心を持って高みに至るべく努めるべきだ、そのために勉強だ、芸術だって感じでさ。その考え方自体に強迫観念があるよ。
(p.130)

ポイント

「学習」は自動詞。今の社会が強いているのは「勉強」
・一般化されるはずのない基礎が、学校制度の中で押し付けられる
・社会が、親が持っていた教育的役割を今全て引き受けざるおえなくなってしまった学校。だが、もちろんそれは不十分。
子供自身より、社会が気になってしまう親たち。そんな大人たち自身も枠にはめられて生きてきた。そんな社会にはめられる意味とは。
・もっと生まれながらの力を待っていてあげる環境こそ必要

大学まで勉強して得たものはなんだっただろう

私は勉強が嫌いではありません。むしろ好きな方であると思います。小さな頃から、私の周りの大人は私に勉強しろとは一言も言いませんでした。それはもちろん親が寛容だったこともありますが、私が自分から学ぶことを楽しんでいるのを知っていたからだと思うのです。

五味先生の言葉で言えば、私は勉強ではなく学習を自発的に楽しんでいたのかもしれません(負けず嫌いだったので勉強もしていましたが)。でも、私はこの社会の中では相当のびのび育った方なのかもしれませんが、結局枠の中の人間だなと思うことがあります。

大学の卒業が見えてきた年にもなって、やりたいことが何かわからないのです。それはどんな教育制度の中でもあることなのかもしれません。私が強調したいのは、むしろ強く感じることが「やりたいことがないなんて問題だ」という社会的プレッシャーであるということです。

自由に生きたっていいじゃないか。本音を言ってキラキラできてた6歳の頃の自分はどこに言っちゃったんだ。五味先生だったらきっとそんな風に一蹴するでしょう。

優等生なんてもう疲れちゃった

こんなことを言うとまた傲慢に聞こえるのかもしれませんが、私はかなりの優等生でした(いや、まだ学生だから、です、なのかもしれません)。中学の卒業式で答辞を読んだ時も、高校で首席だったことも、大学で学業賞をいただいたことも、留学先で単位が関係なくったって勉強しちゃうようなところも。もっと言ったら小学生の頃からやたらと周囲の期待に応えたがる、プライドのものすごく高い負けず嫌いなこどもでした。

でも、そんなものただちょっと要領が良くて聞き分けが良かっただけで、友達の友達くらいからちょっと距離を置かれたりしちゃうような結末しかもたらさないんです。社会に出たら何の面白みもない、上なんていっぱいいてむしろ邪魔なプライドだけがついているんです。悲しいですね。

自分のそういうところは強いコンプレックスです。決められたことの中では頑張れるこ。悪いことすらできないつまんないこ。大人の定規で測られて「いい子ね」って一瞬微笑んでもらえるだけのこ。そんなイメージばかりは知られているから、新しい友達も作りにくいようなこ。

「あなたまで何でそんなところにいるの。」

昔先生に言われた言葉を今でもはっきりと覚えています。私はその時仲が良かった子たちに誕生日を祝ってもらっていて、ケーキを終礼前の教室でみんなで食べていました。終礼が始まる時間になってもまだケーキが残っていて、友達にまだ取り囲まれていた、そんな一瞬の時間の言葉でした。

ああ、私はこの子たちの世界には入れないんだろうか。私が本当に憧れていたのは、先生に一目置いてもらえるような存在ではありませんでした。高校生らしい悪さもやんちゃもできて、それでいて怒られたってちょっと大人に甘えることを知っているような、そういう若い自我でした。

小学校の頃からそんな自分にはなれなくて、だからこそ周りの友達はそれぞれがみんな私にないものを持っているからとても大切で楽しかったのに。みんなと一緒にいることで、私は必死に自分のつまんないコンプレックスを破る夢を、見ていたかっただけなのに。先生の「あなた」に捕らえられて私は、ずっと枠の中に居続けなくてはいけない息苦しさを叩きつけられました。

私は五味先生ほど大胆に、義務教育なんて最小限にしてあとは子供の好きにさせればいいとはまだ言えません。でも、勉強ができるとされている子も、勉強ができないというラベルを貼られている子も、どちらも苦しい学校制度には疑問を持たざるをえないのです。いつでも教えられることに慣れているから社会に出ても枠を求める、そういう人間で構築された社会に閉塞感が漂うのは至極当然なこととも言えると思います。

子供をどんな目線で育てるか、これは正解のない問いです。だからこそ、現状の教育制度で育つ子供の息苦しさを無視してはいけないでしょう。苦しいことを乗り越えることだけが善ではない、それは多くの人が気づいているけれど無視したい事実なだけではないでしょうか。

みんなが通った道だからって、大人が再びそれを次の世代に強いることは特別な意味のある行為ではないのです。私たちはもがき続けるしかありません。型にはめられたくない人が押しのけていくしかない。きっとそこに力を使える人がいないと、次の世代の子どもたちのワクワクが消えてしまうかもしれないから、もっと自由に伸びて行ける環境になるようにしたいから。

約3行感想

ワクワクとか素直さとか大胆さとか、そういうものが失われたのはいつだろうと考えさせられます。大人になる必然なのか、それとも失わなくてもいいのに社会がそれをただ許していないだけでしょうか。学習する人になっていきたいし、環境を作っていきたいです。