BOOKS

かけがえのないありふれたブログの価値|岸政彦『断片的なものの社会学』

ブログを初めて一番思っていたことは、何のためにお金を払ってまでブログを続けるかということでした。ブログを作成し始めると、収益化のためには意識しなくてはいけないことがあるとわかります。当たり前のように、誰かにとって価値のあるものでなくては読まれないと知ります。けれど、それが自分がブログをやりたい理由と合致すると思えず、あえてそういう道を選ばないブログでもいいや、と思って続けてきました。

この度「断片的なものの社会学」という岸政彦さんの本を読み、自分のブログを続ける意味に自分が納得できた気がしたので、改めてここに書き記しておきます。この本は学問の名前を出しながらも、日常の中に当たり前にあるものや個人の人生に視点をあてており、ままならないことに対してもじっくりと考える時間をくれる気がします。友人に勧められて読みましたが、とても好きな本になりました。

目次

ブログで私があえてやらなかったこと

・自己を捨てる
・なにかに特化する
・グーグルアドに引っかかる記事を捨てる
・求められているものだけ書く

これらは全て、一般人が収益化を目指すならすべきことなはずです。(私の認知がよっぽど間違っていない限り。)だってこれがされていないブログって、私に興味のない人にとっては、コンテンツもバラバラで知りたいテーマについての記事に特化しているわけじゃないですか。そんなブログを長期間訪れることはなかなか考えづらいし、その分野において信頼してもらうことも難しいと思います。

また、グーグルアドセンスは収益化に置いて最も手っ取り早く抑えるべき道です。しかし、私の売れっ子記事は完全に飲み会ゲームについてのネタで、これがおそらくアドセンス規約に完全に引っかかっていると考えられます。(今まで4回位アドセンスには拒否されている。)なんですが、今のところこの記事を消すということは考えていません。その他の記事だったとしても、自分の生活を構成している何らかの要素を消すというのは考えづらいのです。

そもそも良いブログは、読み手にとって必要な情報を届けるものです。そのためには特化型であればあるほど欲しい情報は集まりやすいし、専門性も上がるでしょう。また、主観より客観で書かれたもの、データや実績ベースのものが信頼されるのは間違いありません。

ですが私は基本的に主観で書く記事が好きです。恋愛事情だったり生活で起きたあれこれだったり、自分を構成するものに主眼をおいた文章を書きたがります。社会の誰かの役に立つより、完全な自己を押し出した記事。インフルエンサーでもない私がこんな記事を書き続けていくことの価値ってあるのでしょうか。

一般的なブログというものの価値

ブログというものはかけがえのない唯一無二でありながら、ありふれたものなのです。書き手にとっては特別でも、社会にとっては無意味なほど多いのです。

例えばTOEICのための勉強方法の記事などは、私自身参照するものでありながら、だいたい同じことが書いてあります。つまり、内容として自分らしさをこれから出していくには難しく、独自性は特に求められてもいないでしょう。すでに成功している方が多くいる中で、その人達の良いコンテンツをまとめ上げて新たに再編集していくような形が一般的に求められるのだと思います。また、コンテンツも特化型のブログのほうがビジネスには向きます。訪れた人にとってのメリットも大きいです。

そう思ってみると、単純にニッチな興味を持たず、雑食でスキルもない私はブログで何を書きたいのでしょうか。書きたいものは日常で浮かんできたあれこれなんでしょうが、何のために書きたいのでしょうか。コーチングを受けたりもして、やはり続けたいブログへの思いに気づいたこともあり、本の内容とあわせてまとめたいと思います。

かけがえのなさと無意味さ

「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。

断片的なものの社会学 p.21

唯一無二の人間の価値は、その固有性であるはずなのですが、それが無数に無秩序に意味も持たずにばらまかれているのが世界なのです。たったひとつだから大切にされるべきだという単純な話ではなく、たったひとつなのにそんなものがいくらでもあるということに、自我の寄る辺なさと無力さを感じてしまう。。

私がブログでしたいことは、こういうことなのだと思います。このありふれている無意味な自己を、自分だけは価値を信じて残そうとすることなのだと思います。そこにあることに価値を感じてくれるのなんて、私を知ってくれている人や、本当に少ない私のブログを何度も訪れてくれる知らない人なのでしょう。そういう人には本当にありがたい気持ちがありながら、自分のむかいたい方向が、ブログを書き続けたい気持ちと相反しているようで悩むことがありました。

誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないもの

公開されているのに誰に注目されるわけでもなく、知られずに存在だけを続ける沢山の文章があります。多くの一般人の書いたブログ、ツイート。それはただ大量にネット上に溢れています。

だが、世界中で何事でもない何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。断片的な語りの一つひとつを読むことは苦痛ですらあるが、その「厖大さ」にいつも圧倒される。

p.38

私のブログも、まさにそういう雑多な無数の個が集まった山に埋もれたひとつです。見られる状態で存在するのに、届かないもの。その無力さを理由に、当然のように資本主義社会のなかで価値のないものとされる。

ですが、そういう凡庸な唯一を、その特性故に美しいと感じてもいいのかもしれないと、この本は思わせてくれました。そもそも人という生すら、社会の中ではかけがえのない個で、それが無意味に存在していることは私達にはどうしようもない。ここでこの瞬間に目の前に現れるものの、存在自体には意味がないということが尊いのではないかと考えさせられます。

もちろん私は「価値ある」ブログを否定する気は全くありません。英語の勉強法とか、初心者用のブログの作り方とか、おすすめの脱毛サロンとか、今まで生活に必要な情報はそうやって得てきたからです。お世話になっているんです。

でも自分がそういう社会のための存在に、無力ながらなろうとすることができなかった。自我が強くてそれを殺せない自分と、そのスタートラインにすら立とうとしない無力さの両方が恥ずかしかったのです。

それは逃避なのではないか。私は逃げるという言葉が嫌いです。逃げたらだめだと思う。臆病でいること、弱い私はだめだと思う。

自分がお金を払いながら収益を求めないで自分の書きたいものをわがままに書く、これが弱さであるとずっと思っていました。書きたいものしか書けないなんて、それさえできれば趣味みたいなものだからいいんですなんて、ブログをそれなりにしてるのに言い訳なんじゃないのって。

言い訳も嫌いです。逃げてるから。自分の弱さから目をそむけて必死こいて正当化しようとするなんてダサいから。でも、それがしたいってなったら、自分をどう認めてあげたらいいの?

自分はどうやって構成されているか

私の人生のテーマに、「自分がどうやって構成されているのか知りたい」というものがあります。それは、どういう経験や環境が自分の人格に影響を与えているのか、洗いざらい自分を見てみたいというシンプルな好奇心からです。

人は他者との関係の中でしか自分の存在を認識することができないと思っているから、人との関わりや環境のなかで自分を構成してきた要素を集めようとしています。

自分のなかには何が入っているのだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、それぞれつながりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。

誰でも同じだと思うが、私の人格もまた、他人のいくつかの人格の模倣から合成されたものなのである。

p.193

自分とは、他者や環境の模倣であるというのは間違いないと思います。自分自身、なんてものがどれくらい自分から成り立っているかもわかりようがなく、アイデンティティや自我を必死に維持しようとする自分と、その構成要素をバラバラに解体してじっくり見つめたいと思う自分がいるんです。

私たちは「実際に」どれくらい個性的であるだろうか。

個性的である、ということは、孤独なことだ。私たちはその孤独に耐えることができるだろうか。
そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。

p.115~116

そもそも、文章の独自性とかってなんなんでしょうか。その人らしい表現ってあるとは思いますが、それは果たしてその人以外、世界中の誰もがなし得ないものなのでしょうか。誰からも影響を受けていない私らしさなんて、存在するのでしょうか。

実際にどれくらい個性的であるか。その問いは表現において多くの考える余地を残すでしょう。個性的な人の孤独。それは単なる成功者の孤独とは違うものだと思います。

私がブログで書きたいことは、自分というものの形成要素です。そこに私個人である意味をもたせるなら、自分の中に今あるものをさらけ出すしかないと思うのです。全てのコンテンツに共感されなくても、自分が何の模倣をどうやって個性的に組み合わせて生きているのかは、その方法でしかわからないと思うのです。

自己をつくりあげ、自己の基盤となる物語は、たったひとつではない。そもそも自己というものは様々な物語の寄せ集めである。世界には、軽いものや重いもの、単純なものや複雑なものまで、たくさんの物語があり、私たちはそれらを組み合わせて「ひとつの」自己というものをつくりあげている。

さらにいえば、私たちは、物語を集めて自己をつくっているだけではない。私たちは、物語を集めて、世界そのものを理解している。

p.59

私は、自分の中に入っているはずのありふれた物語を、ひとつひとつ愚直に理解したい。私の思考が他の人の何と同じであって、何と違うのかを根本的に知りたい。わたしがなぜ社会を今のように解釈しているのか、その根源に迫りたいのです。

ありふれた人間だからこそ、ありふれた自分がどうできているのかを知ることは興味深いです。だって、なんで普通の家庭で育った私が、似ている家庭で育った人とは違う自己なのか、「違う人間だから」といえばそれまでの問いの、深いところにまで行けるから。

私がブログを続けていく理由

ありふれた普通の23歳。プログラミングができるわけでも、起業しているわけでもない。ツイッターのフォロワーの増やし方は知らないし、そもそもインフルエンサーのお下がりのような有益なツイートを2時間おきに生産することにわくわくしない。わくわくしないことはしたくはない。

そんな私が、それでもブログを続けていきたいと思う自分を肯定できる理由が見つかった気がします。ありふれた人間として生きて、唯一ありふれていない自分への尋常ならざる興味を、残していきたいから。支離滅裂で、共通項が私とのふれあいでしかない情報や感情達を、自分のものとして残していく方法が他にはないです。

無料のサイト借りればいいじゃん、という声、それなと思った時期もありました。でも、秘密基地が団地みたいに連なってたらドキドキしなくないですか。ぽつんとある秘密基地の特別感を、私はいつまでも感じていたいというタイプの子供なんです。自分の中に生きるこどもを、それなりに遊び回らせてやるお金をバイトで稼げるようになったんです。そうしたら、自由にやらせてあげたい。もともとありふれたかけがえのない文章なんだから、有料である無意味さくらい認めてやれます。

人生のテーマなんて大げさと思うかもしれませんが、私がこうやってブログを残していけば、経年劣化して忘れてしまう記憶も、美化されがちな思い出も、その時の状態のままに残し続けることができます。自分の構成要素は、歳をとってこれからもっと増えていきます。その時、自分を探る相手として、過去の自分を使うことができる。最高じゃないですか。

おすすめの図書

断片的なものの社会学』岸政彦(朝日出版社)

私が自分のブログに付いて肯定感を持てた出来事とその思考回路でした。5,000字以上の長文にお付き合いいただいた方、ありがとうございました。