BOOKS

「学力」の経済学 / 中室牧子

教育経済学者の私が信頼を寄せるのは、たった一人の個人の体験記ではありません。個人の体験を大量に観察することによって見出される規則性なのです。(p.17)…早速1行じゃない笑

ポイント

・教育は個人レベルでも特異な例があたかも成功メソッドのように注目されがち(例 東大合格させる母)
・一方で慣習的な「良さそうな教育法」はことごとくデータによって覆されている(例 子供をご褒美で釣ってもいい等)
・政策のレベルでは海外で費用対効果が低いもしくは効果なしと立証された政策に財源を割いている(例 子ども手当、少人数学級)
・そもそも日本では教育分野での実験が「平等」という観点から行えない為、より効果的な施策をうつためのデータ収集ができない

個人ノート

・適切な証拠の集め方(例:ランダム化比較試験)
・証拠の適切な用い方(因果関係なのか、相関関係なのかの見極め)
・幼児期に投資すべきという裏付け
・非認知能力を伸ばす重要性
・家庭(環境・所得・遺伝)という最大の影響

教育分野でのデータの重要性

電球の交換時期を考えるときを考えてみます。いつもは体感このくらい持つよ〜という個人の感想と、電球の使用可能時間と現在の使用時間から割り出された数値があった場合、より多くの人は数値を信頼すると思います。

ところが日本では教育の分野では前者のような情報が未だにかなり有力なものなのです。それは、日本の教育現場では実験が行えないことに大きく関わります。データという証拠を使い、教育政策の効果を図るという前提も環境もないのです。

その理由としては、人間の成長をそもそも数値化することが難しかった、数値化できても「成功状態」を一般化することが困難、人間が相手なので実験の失敗が許されないなどがあると思います。

でも、政府が財源を割く子ども手当や少人数学級に効果がないことが立証されているとしたら。それでもその良さそうという通念に頼る意味はあるのでしょうか。実際のところ米国では落ちこぼれ防止法に見られるように、「科学的データに基づくこと」が既に教育の分野でも当たり前となっています。

教育は平等に与えられなくてはならない。この考えに固執するせいで、学力の格差は広がっていると言います。実験をしてはいけないと言いながら、これでは世代が丸ごと不完全な政策の実験的餌食にされているのと同じではないでしょうか。平等という圧倒的善の前で思考が止まり、結果の本質は見て見ぬ振りをされているように感じます。なるべく不平等ではない教育的実験の方法を考えることは、確かにもっと重要視されるべきでしょう。

データのとり方と用い方

一方で「データ」と一括りにいってもその信頼性はピンキリです。報道など一側面からの視点を巧みに切り取ることと、政策の効果を科学的な証拠のレベルで測ることはデータの質が根本的に違うからです。

前者はデータを集める、使う、どちらの場面でも主観が入っていると考えるのが普通でしょう。主張の裏付けとなるものだけに焦点を当てることがより効果的だからです。しかし、後者は事象と事象の関係に始まり、仮説の立て方、データの収集方法、運用・公開方法においても主観を排除し、再現性を担保することが必要です。

事象と事象の間に因果関係があるのかを見極めることが、統計(データ・証拠)を用いる上で最も重要な基礎になると思いました。ただ単に同時に起こった出来事(相関関係にある)を都合よく紐づけて要因と結果にしてしまっているのかもしれないし、数ある多くの要素の中から都合の良い一つだけを引っ張ってきてもう一つの事象と強引に結んでしまっているのかもしれません(見せかけの因果関係)。因果関係を安易に決めつけることは危険で、物事の関係について慎重に見極めなくてはいけないと強く印象づけられました。

約3行感想

データすっごい!おもしろい!というのがざっと読んだ最も強い印象で(笑)、さすが経済学の教授であると思いました。
幼児期が最も教育的投資の費用対効果が高いこと、非認知能力が日本でもっと重要視されるべきこと、そして家庭の資源(遺伝、所得、関心、環境)は子供の学力にとって学校教育より大きな影響要因になること。個人的にはこの3つがデータによって裏付けられていることで、より興味分野への関心が深まるとともにそれを日本の教育政策に活かす重要性を再認識しました。